サディズムの起源「マルキ・ド・サド」超解説

現代において「サディズム」や「サド」という言葉はとてもポピュラーな言葉であり、一般の人々に広く浸透した言葉だと思います。
単純にサドと言えばSMのS、「誰かを暴力的にいじめたり責めたりすることに快楽を感じること」であると誰もが理解しています。

しかしそもそもこの言葉は何百年も前には存在していなかった言葉であり、長い人類の歴史から見ればかなり新しい言葉と言わざるを得ません。
現にこの言葉は1800年代後半から1900年代前半に活躍したオーストリアの精神医学者によって新たに造られた言葉なのです。

そしてこの言葉の元となった人物こそが「マルキ・ド・サド」という人物であり、彼こそがあらゆるサディズムの起源であると言われています。

元祖ドSの前衛小説家、または変態貴族の「サド」。

マルキ・ド・サド。彼はフランスが革命に揺らいでいた、ちょうどバスティーユ牢獄襲撃事件があった時期を過ごした一人の貴族です。
しかも彼はこの牢獄襲撃事件、フランス革命の発端を作った一人であるともされている人物であり、単純に性に関する文化だけでなく、人類史にとってもかなり重要な人物なのです。

具体的には彼は革命直前に牢獄の中から、牢獄の中では囚人に対する殺人が行われている、との旨を民衆に叫び続けたという記録があります。
これを聞いた民衆はさらに革命の必要性を感じ、バスティーユ牢獄の襲撃を決意したのではないかとされています。

サド

さて、ここで気になるのはなぜサドは牢獄の中に居たのかということですが、これは単純に彼が囚人の一人であったからです。
何故囚人なのかといえば、その理由こそ彼がいわゆるドSで変態で、異常性癖をまったく隠さない人物であったということなのです。

サドは生涯あらゆる道徳と宗教、法律を受け入れず、究極の自由や放蕩を愛し、実に多くの前衛的なポルノ小説を後世に残しました。
彼の作品原稿は近しい貴族や精神科医、蒐集家に受け継がれ、今現在日本国内でも誰もが読めるかたちで残っています。

前衛ポルノ小説家として…

彼の作品における最も大きな特徴を挙げるとすれば、それは「徹底した一方的な暴力」であると言えるでしょう。
たとえば彼の処女作である「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」という小説の内容は、終始性的な暴力と拷問ばかりで埋め尽くされています。

具体的な内容を掻い摘んで見てみても、殺人と汚職に塗れた高齢の4人の貴族たちが、真冬の古城で42人の若い男女と彼らの妻を集団で拷問にかけるといった内容です。
大きく簡略化したこのようなあらすじを聞くだけでも、ほとんどの人がサドの作品は異常であり、前衛的すぎると感じることでしょう。

ソドム

無論、彼の作品は何度も禁書扱いされた挙句、特にフェミニストたちから辛辣な批判を受けてきました。
しかし逆に精神科医にとってはフェティッシュ文化を分析する上でとても重要なテキストであると評価されたり、前衛的な芸術家や哲学者たちには既成概念を打ち壊す偉大な文章であるとも評価されてきました。

このように、マルキ・ド・サドという人物の評価は今現在のSM愛好者たちへの世間の評価と同様に、常々賛否両論、論争が続いていたわけです。
ただそのような物騒な問題の日常化もものともせず、今もなお彼の作品や思想が愛され、広く一般人にサドという言葉が知られているのは、やはり彼が普遍的な人類の持つ真実について言及しているからこそでしょう。

「マルキ・ド・サド」は永遠なり!

サドは存命中何度も投獄、監禁されながらも、一生涯に渡って作品の執筆を続けました。
最終的に獄中死を迎えた彼ですが、彼が人類に遺した影響は計り知れず、良い意味でも悪い意味でも、人類史を語る上で彼を無視することはできません。

SM文化について学んだり、実践したり、SM業界の中で働いたり遊んだりしているすべての現代人に、もっとマルキ・ド・サドについて知識を深めて頂きたいと思います。
そうすれば、彼が生涯訴えたかった人間の自由、性の営みに対する真摯な思想が、おぼろげながらある程度理解できるようになるかもしれません。

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