【連載企画】SM出会い的「マゾヒストの心理学」まとめ
SMを成り立たせるサドとマゾの関係は、少なくともSMという言葉が生まれた数百年前から数多の人の間で成立し続けています。
つまりサディストとマゾヒストはどちらもこの世の中に多数存在し、それぞれがこの地球上で自然発生しているということでもあります。
そこでひとつ疑問に思うのは、つまるところ「サドやマゾは一体どういったことが原因で生まれるのだろうか?」ということです。
さらに突き詰めて考えれば、そもそも「サドとマゾはそれぞれどのような心理状態でSMを楽しんでいるのだろうか?」ということも大きな疑問となります。
この疑問については通常、サディスト本人、マゾヒスト本人に聞けば確実な回答が得られるだろうと思われます。
しかし、経験上この質問をしてもほとんどのSM愛好者は「自分でもわからない」とか、「上手く言い表せない」とか、「言葉にすることではない」と回答します。
要はサドとマゾ、それぞれの詳細な心理状態や動機は、多くのSM関係者…驚くべきことにSM調教の当事者までもが…いまだに厳密に解明できているわけではないのです。
知的探求心というものを人並み以上に持っている人であればこの問題、とても興味がそそられることではないでしょうか?
ずばり「サドとマゾは心理学上どのような状態でSMの出会いを楽しんでいるのか?」
この疑問についてさまざまな意見を収拾し、私なりの分析をし、今回から隔週複数回に分けてさまざまな説や意見、分析などをまとめていきたいと思います。
マゾヒストの心理学①「マゾは自罰から生まれるか否か?」
一説ではマゾヒストとは自分自身に対する罰を意識して、SMプレイを楽しんでいるとされています。
なんでもこれは心理学の権威フロイト先生が提唱した考えの一つでもあるようで、多くの人がマゾヒストは「自分は罰せられるべき人間だ」と考えていると分析しているようです。
なるほどたしかに自分は罪深い人間だと考えているなら、マゾが自分で自分を虐めることも納得できますね。
しかしここで一つの疑問が生まれます。
それは本気で自分に罪があるということを自覚しているのであれば、なぜその自罰のためにSMに励むマゾヒストは、「罪を償おうとしない」のでしょう?
いや、「罪を償おうとしている」から自罰的なSM行為をしているのでは?と思われるかもしれません。
しかし本当に自分が罰を受けるべき人間であるなら…それを克服するために自分を罰しているなら…ほとんど一生涯「その罪を償うために生きている」というのはおかしな話です。
なぜなら「罪とは前提として償われなければならないもの」であり、それを認識しているなら、いつまでも「自分を罰している」=「罪を抱えたままの自分」を保つことは、「罪は償うべきもの」という前提と矛盾しているからです。
この矛盾に気づいた時に見えてくるのは隠れたひとつの真理。
つまりマゾヒストはなにも「罪を償うために」、「自分がダメな人間だから罰として」自分をいじめているわけではなく、「自分をいじめることが何より好きだから」自分を虐めているのではないか?ということです。
要は「目的(贖罪)のための手段(罰)」ではなく、「手段(罰)のための目的(贖罪)」になっているというわけです。
なにやら複雑でわかりにくいかもしれませんが、要は「自罰という理由でマゾヒストになっている人は、厳密に言えば実在しない」のではないかということです。
先ほどの目的と手段の話をこの考えで言い直せば、マゾヒストは「罰という目的のために贖罪(=そのための罪)という手段(SM行為)を望んでいる」のではないかということです。
こういった理由でやはり、少なくとも私は、「マゾヒストは自罰的な精神を持っているが故に存在する」という論は「間違い」であると考えます。
(次回、マゾヒストの心理学②では「マゾが抱えるプライドと解放」をお送りします。)