マゾヒストの心理学②「マゾが抱えるプライドと解放」

前回の自罰説以外に有力な説の一つに、精神的な意味での解放を求めているのがマゾではないか?という説があります。
これは自らひどい仕打ちを受け、自分自身を痛めつけることによって、人としてのプライドを捨て去り、誰もが持っている人間性という重荷から解放されようとしているのではないかという説です。

この説は自罰ゆえのマゾ説と違って実にシンプルで、要は自分をよく見せようという誰にでもある意識を、過激なかたちで捨て去ってしまおうとしているのではないか?というものです。

たとえば全裸で土下座したり、首輪を嵌められたまま性奴隷として過ごすなど、普通の人間であれば恥辱の極みと言える行為です。
しかしマゾはこのようなひどい行為を行うことによって自分を貶め、普段の自分とは違う自分を意識することで興奮しているというわけです。

言わば普通の人間が持っているプライドや世間体から解放されることこそ、マゾがマゾである悦びの究極系なのかもしれません。
自分をただ罰したいのでもなく、痛いことやバカにされることが最初から好きなのではなく、痛みや蔑みを通して自分自身から解放されることに喜びを感じているのかもしれません。

解放

信頼の上に成り立つ心理

こういった説を前提に考えてみると、マゾヒストの行動や、彼ら彼女らに対してのベストな接し方もおのずと理解できます。

あくまでマゾというのは解放を求めているわけですから、SM目的の出会いやSM調教においては容赦をしないことが大切になります。
そして同時に、深い部分では暗黙の了解、信頼関係の構築が必要です。

具体的にはたとえどれだけ激しい責めをしても、それは相手を普段の自分から解き放つためだけにやっている必要があります。
間違っても痛めつけられたらそれだけで気持ちいいとか、本当のバカだからバカにしていいのだと考えてはいけません。

つまるところSM調教とはあくまでプレイであり、平等な立場の人と人が同じ目的のために同意の上で行うものなのです。
この大前提を間違ってしまうと、SMプレイはただのイジメや暴行に変わってしまう場合があるため注意が必要です。

(次回、マゾヒストの心理学③では「奉仕の喜びとマゾ」をお送りします。)

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